母親の生き方の影響を受けています。

子どもが面喰

親と子の立場は逆転するはずもないのだが、親も子もそれぞれの立場以前に、素っ裸の人間であると考えてみたらどうだろう。
と子という固定した考えにとらわれずに、それぞれがこの世で一番正しく美しく価値があると考える一本の道を、まっすぐに歩いていくことが一切に優先するという発想でもよいのではないか。
子どもの発達段階によって、保護·指導·自立のステップはあってもいいが、親子間が親子の情の通い合いだけに限定されてしまっているとしたら、実にもったいない限りである夫婦の間柄とともに、親子関係というのは、もっとも意味のある人間関係の一つである。先生はみんな頭を悩ませていました。だからこそ、そこに友情が生まれ、それぞれが独立した人格主体として尊敬し合い、励まし合い、叱咤し高め合う関係性が存在しても、いっこうにかまわないのではないか。
しったかえって、こういう自由で自覚的な触れ合いの中からこそ、実は親としてのあるべき姿に近づき、素晴らしい子どもが生まれ育っていくのではないだろうか。
親は親、子どもは子どもと一面的に断定する発想パターンでは、やはり説得と服従の鋳型しか生み出せない。親への服従を強めれば、隷従に転化する恐れもあり、これでは子どもの主体性を確立する芽を摘んでしまうことになる。
親子関係も人間関係の一つである以上、ともに一個の人間として、自らの生き方を見つめ合い、軌道修正し合いながら、心からよき人に巡り合えたという感謝の念を持つことができたら、何という幸福だろうか。

両親の何気ない会話の中

  • 勉強するのは自分のためでもあるけれど
  • 子どもに理解されていないかを一人一人
  • 子どもにいいものを食べさせたい


勉強しとるなあ!


母さんがその前を通ろうとしたところ大介君

素晴らしいもの
に、大人と子どもの区別はない子どもの話に感動できない親が、シラケた子どもをつくる作家の吉川英治氏は、我以外皆我師と言った。味わい深い言葉であるが、これをいざ学ぶ実践するとなると、簡単にはいかない。
ことに徹するのは至難の業だ理屈や観念ではわかっているつもりでも、こけん普通、一個の人間としての立場.沽券·プライド·感情などに強く心を支配されなかなか純粋に学び抜くという姿勢をとれない。

伸びていきます。

だから、わかっているふりをしたり、素晴らしいものを素直に認められなかったり、逃避したり、無視したりすることが多いのも、われわれ凡夫のなせる業であろう。
このことを少しつきつめて考えてみると、われわれは大変な損失をしていることに気づく。要するに、小さな価値観·感情·生き方に左右され、自らを大きく本質的に発展させていく道をふさいでしまっているわけである。この一点の発想の転換、姿勢の変革だけでもできれば、どれだけ大きな価値を生み出すか計り知れない。
まして相手が子どもとなると、子どものくせにいいこと言うけどなかなかやるけどいいことはいいがとなってしまいがちだ。親は、年齢·経験·体力,見識の差·生活の面倒をみているという傲慢·すべて未熟と決めつける偏見などが障害になり、子どもの成長の芽を摘んでしまうことが多い。


いじめの横行などの問題

勉強をします

ごうまん灰谷健次郎氏は、大人は変わらないけど、子どもは変わるというある市井人の一言を聞いて、翻然とペンを握る決意をされたという。より可変性の大きい、子どもの素晴らしいパーソナリティ·芸術性·バイタリティ·オリジナリティを、われわれ親や教師がもっともっと鋭く発見し、深く認識し、大きく生かそうとする目と心構えを持つことがいかに大切かを改めて思う。
教えることは学ぶことだ。この認識に立つ大人が増えれば、子どもから学ぶことで、柔軟でしなやかな思考と感受性をみなぎらせて、大人社会を浄化し、高めることができる。
たとえ子どもが言うこと、やることであろうと、いいものはいいのであり、素晴らしいものは素晴らしいのであるこの単純素朴な真理が、現代社会では忘れ去られている。


子供のほう

ということを、今こそ強く再認識すべきではないだろうか大人は、かつて子どもだった子どもの語ることを一心に聞くことこそ、最初の語りかけ黒柳徹子さんの窓ぎわのトットちゃんは素晴らしい教室の窓からチンドン屋さんを呼び止め、ねえ、ちょっとだけやってみてよと、授業中なのに演奏させてしまうトットちゃん。あまりの奔放さゆえ、小学校を退学になった。
その後、彼女を受け入れたトモエ学園の教育も素晴らしい。誰も耳を貸さなかったトットちゃんの話を、四時間も聞いてくれた校長先生。この温かい心と魂に深い感動を覚える。
子どもが、学期末に通信簿をもらってくると、成績評価の欄だけにくぎづけになる親の
目。


先生はみんな頭を悩ませていました。 子どもの方が端的にしっかりやってしまいます。 教育は行われない。